2017年01月09日

中東研ニューズリポート

イラン:ラフサンジャーニ元大統領、82歳で逝く

執筆者

田中 浩一郎

カテゴリー

政治

地域・テーマ

イラン
 1月8日、イランのアクバル・ハーシェミ・ラフサンジャーニ元大統領が心臓発作により急死した。享年82歳であった。米国で対イラン強硬路線を敷くと目されるトランプ新政権の発足が控える中、今後のイラン・イスラーム共和国体制の外交・安全保障はもとより、その経済・社会政策に至るまで彼の死が及ぼす影響は多岐にわたるだろう。

<栄華の時代>
 ラフサンジャーニ師は、革命第一世代に属する一線級の闘士であり、特に、ホメイニ師が存命中であった80年代には国会議長ながら絶大な発言力を誇った。有力な先輩格や同輩の多くが革命初期のテロで相次いで落命したこともあり、同師が頭角を現すようになるまでさほどの時間はかからなかった。このようなめぐり合せも彼の出世を後押しした。

 その権勢を示すように、ラフサンジャーニは名をもじって「アクバル・シャー(アクバル帝)」と揶揄されることも多かった。革命政権下で「シャー」と名の付くものをことごとく忌み嫌う風潮が支配していたにもかかわらず、このニックネームが充てられたことには相応のわけがある。要は、彼がいかに強大な権力を手中に収めていると周囲から思われていたか、それがここには如実に表れている。当然ながら、政敵に対する仕打ちも容赦がなく、一時はホメイニ師の後継者として認められていたホセイン・アリ・モンタゼリ師(故人)の失脚に際しても、陰でラフサンジャーニが暗躍した形跡が認められる。

 いったん彼が動けば、新たな政治潮流が生まれることにもなった。後に改革派の母体となる「闘う法学者集団」が、既存の保守的な「闘う法学者協会」から分離独立した際にも、ラフサンジャーニは、あからさまな国内対立への発展を危惧するホメイニ師らの懸念を和らげ、イラン社会の多様な価値観に対応できる受け皿の用意を主導した。

 ラフサンジャーニの政治志向の特徴でもあるこうした現実的な視座は、外交・安全保障の分野でもその時々で岐路に立ったイランを導くことになる。対イラク戦での反撃と継戦能力の確保のため、イスラエルを介した米国製の武器密輸取引にかかわったことを手始めに、泥沼化したイラン・イラク戦争に終止符を打つことになる国連安保理決議の受諾を国軍最高司令官代理としてホメイニ師に進言するに至るまで、祖国防衛と革命体制の護持で果たした役割は大きい。

 また、大統領に就任した89年からは戦後復興を表題に掲げ、戦時統制経済からの脱却と自由市場経済への回帰を目指し、なかでもそれまでタブー視されてきた外資導入をイラン経済発展の要と位置づけたことはイランにとって重大な方針転換であった。また、戦時中の抑圧的な雰囲気を緩和し、社会改革に乗り出すことも国民から寄せられた期待として高かった。だが、政治手腕に長けていたラフサンジャーニにとって、一つの「誤算」から晩年に向けての政治活動は著しく不自由なものとなった。自分よりも若いハーメネイ大統領(当時)をホメイニ師の後継最高指導者に祭り上げたことがそれである。

<政治権力の衰退>
 ラフサンジャーニが大統領として政権運営と諸政策の責を問われるようになった90年代は彼個人の政治的衰退の始まりでもあった。門戸開放、規制緩和、補助金改革などの政策は、戦時下で特権を享受してきた既得権益層の不興を買い、「社会的弱者の切捨て」なる批判を早々に浴びることになる。社会的な開放政策は、イスラーム革命の価値の軽視として保守派によってやり玉に挙げられ、政権の志向とは裏腹に街頭での風紀取締まりや家屋からの衛星受信アンテナの押収も相次いだことで、大統領の権威は失墜した。

 さらに、90年代後半に改革派が勢いを得ると、かつての政敵モンタゼリ師がその精神的主柱として求心力を高めたこともあり、ラフサンジャーニ本人ばかりかその親族までもが改革派からの厳しい糾弾を受けるようになった。一族郎党で権力を欲しいがままにし、私腹を肥やすことに余念のない政治家としてのレッテルが公然と貼られたのである。バッシングはハータミ政権時代からアフマディネジャード政権時代にかけて盛り上がりを見せ、中でも、マフムード・アフマディネジャード氏に決選投票で敗れた2005年の大統領選挙の帰趨にはネガティブ・キャンペーンが大いに影響を与えたものと考えられる。

 そして、この間に着々と自らの地盤固めを行い、暗に明に、ラフサンジャーニの権力縮小に向けて堀を埋めてきたのが5歳年下のハーメネイ最高指導者である。国営放送の総裁を務めていた実弟のモハンマド・ハーシェミ氏の解任を通じてメディアに対するラフサンジャーニの支配力を弱め、影響下にあった石油産業などのテクノクラート層を切り崩すことで経済政策への発言権をはく奪したことはその一部でしかない。方やラフサンジャーニの軍再編策に嫌悪感と危機感を覚えていた革命防衛隊を同志として糾合し、さらに最高指導者の人事権が直接的に及ぶ司法権を通じて有形無形の圧力を加えていくという念の入れようでもあった。極めつけは、やはりハーメネイと盟友関係にある憲法擁護評議会が下した2013年の大統領選挙への立候補資格の否定であろう。

 ただし、長年にわたって反ラフサンジャーニ運動に勤しんだのは保守派ばかりではなく、改革派も同様であった。その功績や実態とは無関係に、ラフサンジャーニという政治家は、改革派にとって保守派もろとも破砕しなければならない巨像であったのだろう。

<死没の影響>
 ラフサンジャーニが先に没したことを以て、これでハーメネイ師が名実ともに革命の功労者であり、継承者であるとともに、イスラーム共和国体制の「中興の祖」として歴史に名を刻むことになった。また、ハーメネイ自身の後継者選びに影響が及ぶことは否定できない。ラフサンジャーニの死は、ハーメネイを継ぐ次の最高指導者を選出する「Xデー」が到来した暁に、討論と審議を行う専門家会議の場にラフサンジャーニがもはや臨席することがないことを意味している。過日、大アヤトラの一人であるアブドルキャリーム・ムーサヴィ・アルデビーリ師の死没もあったことで、現実主義的な政治志向を持つ後継者候補が見当たらなくなっていたことに懸念を覚えたばかりであるが、ますます教条主義的な色合いを持つ人選が行われる可能性が高まったことになる。

 こうしたパワーバランスの変化は、現在のハッサン・ロウハーニ大統領に対する逆風とも受止めることができよう。ロウハーニ自身の政策的な志向からしてラフサンジャーニ政権の焼直しと称してもおかしくないほど似通っており、ロウハーニの後ろ盾として長年にわたって協調してきたラフサンジャーニ師が存在したことは周知の事実である。特に、外資をイラン経済の活性化のためにカンフル剤として導入しようとするアプローチは、最高指導者の標榜する自律的な経済発展とは180度異なる方向性を示しており、ラフサンジャーニの死によってイラン国内での外資導入のモメンタムが低下することが考えられる。

 また、米国で近く対イラン強硬論をぶつトランプ政権が発足する折、イラン国内で対米交渉堅持を志向する政治家の肩身が狭くなることが予想される。2015年の核合意に基づく制裁解除の恩恵がなかなか感じられないこともあり、一貫して核交渉と合意を支持してきた重鎮の他界は政権にとっての打撃でもある。あくまでもトランプ新大統領の出方に依存するが、米国との交渉チャンネルの維持に利を見るロウハーニ派にとって、国内でこれまで以上に厳しい状況に直面することになるだろう

<ひととなり>
 最後に、ラフサンジャーニという人物を反芻してみよう。ラフサンジャーニは、西側のメディアで名前を誤記されることがもっとも多いイランの政治家であり、それは死亡記事に際しても変わることがなかった。彼は、革命前に神学生でありながら、徴兵制の下で兵役を務めた例外的な人物の一人としても知られる。兵役後に日本を個人的に訪れたことがあり、広島の原爆記念館で記帳も済ませたことが自伝に著されている。そこに記載されたファースト・ネームは「アクバル」であり、多くのメディアが誤用する「アリ・アクバル」ではない。ちなみに、「クーセ(鮫)」という異名は、身体的特徴である髭の薄さから付けられたと言われている。

 革命後、1985年に国会議長として公式に訪日している。後に、日本の戦後復興に学ぼうという強い意欲を表したように、日本の経済力と技術力に対して高い関心を有していた。それは彼が訪日に際して帯同した子女についても同様であり、彼らが公的な地位に就いていた時代には日本の官民との交流も行われていた。

 ラフサンジャーニの一族は、イラン南東部のケルマーン州でピスタチオ農園事業を展開していることが有名である。核合意に基づく米国の制裁緩和の一環として、イラン産ピスタチオの米国輸入が許可されることになっただけに、さらに齢を重ねていればますます財を成したことであろう。また、この一族は、コングロマリットを形成していることでも有名である。そのひとつにMahan Airの運営母体でもあるAmirol-Movahhedin財団がある。Mahan Airは、米財務省OFACのSDNリストに記載された資産凍結対象団体であるが、イランの航空産業における新興勢力ながら、利用客からはIran Airをはじめとする既存の航空各社を凌駕する評判を集めており、同財団の中核を成す企業体として位置づけられる。