(「速報」中東経済研究所、2000/06/21掲載、06/24 11:00追加修正)

第9回バアス党地域指導部大会





 シリアの与党であるバアス党(アラブ社会主義復興党、復興=バアス)が2000年6月17日、第9回地域指導部大会を開催した。大会には関係者1021人、オブザーバー138人が参加し、そのほか報道陣も200人あまり集まった。

 バアス党にはアラブ全体を視野に入れた民族指導部(National Command、民族=アラブ民族)と、シリア地域のみに限定した地域指導部(Regional Command)がある(メンバー構成については別表参照)。同党はアラブ社会主義を標榜しているが、党内の権力闘争や、1950年代末から60年代初めにかけてエジプト(ナーセル大統領・当時)との国家統合失敗などを経て、次第にシリアに限定した地域思考に陥っていった。

 バアス党は政府機構と平行した党組織を構築し、故アサドが1971年に大統領に初選出されたときには既に、国民の目に触れる政府にはスンニー派が、軍・治安組織の幹部には大統領の出身宗派であるアラウィー派、なかでも血縁者が多く配置されていたことが知られている。

 バアス党は単に政権政党であるだけでなく、シリア憲法第1章第1節第8条によって「社会及び国家における指導的政党はバアス党とする」とその地位と役割が規定されている。旧ソ連における共産党の指導性と同質で、非バアス党員が組織の中で幹部になることは稀であり、仮に登用されても基盤が弱いために力を発揮することは難しい。例えば、バアス党員でなくても大学教員にはなれるが、非バアス党員が教授になることは難しい。この傾向は政府機構になればなおさらである。

 大会に先立ってal-Hayat紙が入手し6月13日に報じた資料によると、バアス党員数は増えており、党友の数は第8回大会当時(1985年)の43万人から現在は140万人に増えているという。第8回は故アサド大統領の実弟リフアトによるクーデター未遂を経て開かれた大会であり、当時精鋭部隊の一つを指揮していたリフアトの動静を大統領が把握しきれなかった反省にたち、軍隊内でのバアス党活動が奨励された。リフアトは1984年以降国外に亡命している。1985年に軍隊内に初めて設置された党支部は、いまや27支部、2万5000人の党友を有するまでに拡大した(詳細は別表(党勢)を参照)。現在では、量の拡大から質の向上に、その焦点が変質してきている、と上記資料は指摘している。

 バアス党大会は、別表(党大会の開催記録)が示すとおり、党の活動を定期的に評価し直すものではない。党内が意見不一致となったときに、反対勢力を一掃する役割を担ってきたのが党大会である。権力闘争に敗れた者たちは、単に除名されるにとどまらず、国外追放になったり、逮捕状なしで長期間拘留されたり、暗殺など不自然な死を遂げた者も多い。そして故アサド大統領の足場が固まるにつれ、党大会は開かれなくなった。最後に開かれた民族指導部大会は1980年が、地域指導部大会は1985年であった。このたびの地域指導部大会は15年ぶりの開催となる。

 このところバッシャールの任務である汚職追求が厳しさを増していたが、汚職追放に名を借りた政敵潰しの側面もあると指摘されている。これまでに公職を追放されたものは電力大臣(1993年)、観光大臣(1995年)、1999年には法務大臣、ダマスカス県知事、ダルアー県知事、農業大臣、2000年には前運輸相、ズアビー元首相、前総合情報部長などで、徐々に権力の中枢に迫っていた。2000年5月21日にズアビー前首相が逮捕直前に拳銃で自殺した時点で、権力がアサド大統領からバッシャールに移行したのではないかとの噂も流れた。6月6日には、アサド大統領の片腕として共にシリア建国に尽力してきたヒクマト・アル・シハービー前参謀総長が国外に自主出国するに至った。1974年第4次中東戦争後にイスラエルとの停戦合意にシリア側代表として出席し、1994年末にはイスラエルとの軍事委員会でバラク現首相と協議したこの人物をベイルート空港で見送ったのは、ハッダーム副大統領とレバノンの実業家ハリーリー前首相の2人だけだった(al-Hayat, 2000.06.07)。

 このような状況下で開催された今次の党大会は、将来のシリアを占ううえで重要な意味を持つと思われる。

 (なお、アサド大統領死亡については「速報」および「ニューズレター」を参照)

 ここでは本日までの情報を箇条書きでまとめる。


  1. 日程:2000年6月17日 - 20日夜

  2. 参加者1021人、オブザーバー138人(SANA, 2000.06.17)(al-Hayatは参加者950人と報道している)

  3. 地域指導部21人(執行部)のうち17人出席。欠席者は故アサド大統領(死亡)、リフアト(国外追放)、シハービー(前参謀長、自主亡命で事実上の追放)、ズアビー前首相(汚職容疑で自殺)。

  4. 会場に全員集まったところに、バッシャールが入場。バッシャールの右にイサーム・アル・カーディー(親シリアで反PLOのパレスチナ・ゲリラ・グループ「サーイカ」指導者)、左にムスタファー・タラース国防相が座った。バッシャールが簡単にはアラファートに歩み寄らないことを示すものと受け止められている。また旧世代のうち、タラース国防相の排除が難しいことを示唆しているとの見方も。

  5. 6月17日、政治部会経済部会党機構部会の3つに分かれて、執行部が準備した報告書の討議を開始。

  6. 政治部会では軍部の参加が目立つ。

  7. 各部会ともアル・アフマル副総書記に指名された人物(指名)と、自ら手を上げて参加表明をした人(自薦)により構成されている。(al-Hayat, 2000.06.18)

  8. バッシャールは全ての部会に関係しているようにも伝えられているが、複数の部会に同時参加はできないはずで、実態は不明。

  9. al-Hayat紙が大会関係者から聞いた話によると、6月18日、腐敗撲滅キャンペーンで公職を追放された党員が執行部や政府を激しく非難し、アル・アフマル副総書記が、批判をメモとしては残すが、会議の公文書には記録しないよう求め、批判派をなだめる局面もあった(al-Hayat, 2000.06.20)。

  10. 6月19日になり、「議事を円滑にするため」バッシャールを議長とする6者委員会を設置(al-Hayat, 2000.06.20)。

  11. al-Hayatの情報筋によると、政治報告に、次の2点を盛り込むことが討議されている。「イスラームは信条、伝統であり、我々の政治生命の一部である」「(中東)和平は、シリアに関しては戦略的選択である」(al-Hayat, 2000.06.20)。前者が真実だとすると、バアス党発足以来の世俗性を転換させるもので大いに注目すべきである。アサド政権を形容するのにしばしば用いられるアラウィー独裁という批判をかわし、スンニー派を党に取りこむ意図があるかもしれない。アラウィー派はスンニーの主流派からイスラームの一部として認められていない。1970年代にイランからレバノンにやってきた怪しげなシーア派僧侶ムーサー・サドゥル師が「アラウィーは(イランの)12イマーム派の一部である」としたファトワ(宗教解釈)が、アラウィーをイスラーム主流派に結びつける唯一の宗教解釈である。シリアとイランの同盟関係について、その宗教面を強調すべきではないが、こうした背景を知っておく必要はある。余談ではあるが、故大統領の葬儀は、シーア派の聖職者を多数呼び寄せて執り行われた。アラウィー派の秘儀も行われたと思われるが、その部分はテレビ中継されなかった。

  12. バアス党中央委員会(CC: Central Committee)を廃止する提案が出されたが、そもそも中央委員会は民族指導部によって設置されたものであり、地域指導部がその廃止を決める権限はないということで、ひとまず決着(al-Hayat, 2000.06.20)。

  13. ハッダーム副大統領は地域指導部に残留したが、al-Hayatによると彼を排除しようとする動きがあったものの、タラース国防相がハッダーム残留に固執したという(al-Hayat, 2000.06.21)。旧世代のなかでタラース国防相の権力基盤が強固であることを暗示するエピソードである。

  14. 経済部会では、経済政策と経済改革の方向性をめぐり、真剣な討議が行われた(=議論がまとまらない???)模様(al-Hayat, 2000.06.21)。

  15. 大会は6月18日、満場一致でバッシャールを党の指導者に選出した。

  16. 地域指導部大会は最終日の6月20日、バッシャールを最高地位である地域指導部総書記に選出した。また新地域指導部メンバーを決定。欠席4人を除き、8人を更迭、12人を新規任命(al-Hayat, 2000.06.21)。軍人は1985年選出組には4人いたが、今回は3人に減少した。(メンバー構成については前出の別表・執行部を参照)

  17. 6月20日、中央委員会の委員定数90人のうち、62人を改選した。62人は地域バランスを考慮して出身県別に調整してある。軍人は、1985年選出組には10人いたが、新メンバーでは16人に増えた。また女性委員が16人含まれる。今回バッシャールの弟Mahir、タラース国防相の子供Manaf(2人とも大統領警護隊)が選出される一方、かつての有力者アリー・ドゥーバー前軍事情報部長は解任された。(al-Hayat, 2000.06.22)(詳細なリストは別表参照

  18. 監査委員会(Control and Inspection Committee)に5人を選出した(al-Hayat, 2000.06.22)。(別表参照)

  19. 軍については、ハッダーム副大統領が6月11日付けの大統領令で、故アサド大統領の死去が発表された6月10日にさかのぼってバッシャールを軍最高司令官に任命した。これにより、軍最高ポストの法的空白が埋められた。

  20. 行政の最高ポスト(大統領)は空席になっており、ハッダーム副大統領が職務を代行している。6月25日に予定されている人民議会(国会)でバッシャールが大統領候補として指名され、国民投票を経て正式に大統領に就任する予定である。al-Hayat紙は、国民投票は7月10日ごろと報じている(al-Hayat, 2000.06.22)。


●上記は速報版です。今後、細かな情報が訂正されることもありますので、予めお含み置き下さい。

以上

(文責:伊丹和敬)