(速報、2000.06.12)
アサド大統領の急逝と今後の情勢
1. アサド後のシリア
(1) アサドの急逝
6月10日の早朝、アサド・シリア大統領と電話で会談していたラッフード・レバノン大統領は、「将来的に良好な二国間関係を築くことが我々の宿命だ」と語った後、アサドの言葉が途切れる状況に当面し、何事かが起こったことを悟った。その後のシリア側発表によると、同日午前11時にアサドは絶命している。1930年10月6日生まれの同大統領は、1971年からシリアの権力を独裁的に掌握しており、享年は69歳であった。
今のところ死因は公表されていないものの、アサド一族に近いレバノン人外科医によれば、心臓発作がアサドの命を奪った模様である。カタルのテレビも、死因は心臓発作と伝えている。1983年11月12日にやはり心臓発作で生死の境をさまよったとされる同大統領は、以後も糖尿病や肝疾患に悩まされており、その健康問題との絡みでシリアの権力継承問題はこれまでもたびたび話題となっていた。
しかし1983年の心臓発作の際、一方的に権力継承の意志を明らかにして大統領の不興を買った実弟のリフアトは、その後国外に逐われる身となっており、1999年10月にはシリア北西部の都市ラタキアの保養施設で、リフアト派の武装勢力が政府特殊部隊の攻撃を受けて潰滅するという事態も発生していた。政府側の発表では、麻薬密輸行為の調査中にリフアト派との戦闘が発生したことになっているものの、現地からの情報はむしろ、リフアト派一掃活動の一環と捉えるべきことを教えている。
その意味では、有力な反対勢力の排除は着実に進んでいたと見られ、アサドが急逝した時点で、シリア国内には落ち着きが見られていた。
なお、アサドの死の公表とともに首都ダマスカスの警備は強化されるに至っているものの、現地で取材にあたるCNNの特派員によると、過去20年間でこれほど報道への規制が緩やかな状態はないという。
(2) 順調に進む権力の継承
実際そうした状況の中、これまでの権力継承過程は円滑さを印象づけている。後継者と目されていた長男のバーシルを1994年に交通事故で失って以来、アサドは二男のバッシャール (1965年8月生まれ)をこれに代わる後継者として育成しようとしてきた。アサドが死去した6月10日の時点でバッシャールは陸軍大佐でシリア・コンピュータ協会会長の地位にあったにすぎないものの、そうした肩書のままバッシャールはレバノン政策の調整を任されていただけでなく、アサドに代わって諸外国を訪問することも少なくなかった。
バッシャールを後継者とするアサドの意思は、その死の時点ですでにシリア国内にかなりの程度浸透していた様子がある。シリア議会はアサドの死が公表されてから2時間も経たないうちに憲法83条を改正し、大統領への就任可能年齢を40歳から現在のバッシャールの年齢である34歳に引き下げた。また、憲法第88条の規定によって大統領代行の地位に就いた副大統領のハッダームは翌11日、バッシャールを中将に昇進させ軍の総司令官に就けると発表している。一方でバアス党は同日、全会一致でバッシャールを大統領候補とすることを決定し、これを受け議会は憲法第84条に基づく大統領国民投票の手続きに入った。
アサドの死とともにシリアでは40日間の喪が宣せられたため、議会は大統領就任可能年齢を引き下げる憲法改正を行って以来休会となっているが、6月25日の議会召集がすでに発表されており、その場でバッシャールの大統領就任を問う国民投票が正式に発表されるものと見られている。国民投票で絶対多数を獲得することが大統領就任の要件だが (憲法第84条4項)、高度に中央集権的なシリア政治の特質からして、この点でバッシャールがつまづくことはまずありえない。
バッシャールの権力掌握に対する懸念材料としては、彼への権力委譲の一環としてアサドが進めてきた腐敗摘発活動がある。この活動の標的となった者の中には、その後自殺に追い込まれた前首相のみならず、軍の有力者等も含まれており、30年にわたって絶対的な権力であったアサドが欠けた今、腐敗摘発活動への不満と反発がバッシャールに向かうことはないかどうかであろう。現状で軍の不穏な動きは報じられてはおらず、首都も平静を保っているが、この点は引き続き注視が不可欠である。
前述のリフアトは国内での基盤が乏しい状態といわれるが、バッシャールに不満をもつ軍関係者との接近を図る可能性もないとはいえまい。だが、現状ではあくまで可能性の段階にとどまっている。
リフアトは民主主義の導入や経済自由化、イラン支持の撤回等を主張し、国民の間にも根強い人気があったが、シリア・コンピュータ協会会長として行った国内へのインターネット導入措置で、バッシャールも同様の開放的印象を振りまくことには成功しており、彼は国民のリフアト支持層を切り崩す可能性ももっている。
(3) 中東和平面への影響
ジュネーブで3月26日に行われたアサド・クリントン会談が決裂してから、米国とイスラエルは対シリア交渉より対パレスチナ交渉を優先する姿勢を固めており、アサドの死の直前にもこの点はオルブライト米国務長官が確認していた。
他方、当面バッシャールは国内での権力基盤固めに傾注しなければならず、それへの妨害を極小化するためにも、中東和平面で父親以上の譲歩は避けることが得策となろう。その意味ではイスラエル側の譲歩がないかぎり、シリアとイスラエルの和平交渉が急展開する可能性は乏しいものと見られる。6月11日にクリントン米大統領と電話で会談した際にバッシャールは、公平で包括的な和平の達成という父の目標を引き継ぐと言明した。
6月13日にシリア北西部の町カルダーハ (ダマスカスから約200km)で行われることが発表された葬儀には、シラク・フランス大統領、プーチン・ロシア首相、オルブライト国務長官をはじめ、各国からの要人が参列することが判明しているが、弔問外交の場でもシリアとイスラエルの和平よりは、レバノン問題や自国とシリアの二国間関係が焦点となろう。
バッシャールにとって好都合なのは、イスラエル軍一方的撤退後のレバノン情勢にひとまずの落ち着きが見られていることである。イスラエル・レバノン国境の確定問題でシリアとレバノンは、必ずしも国連の立場を完全に受け入れたわけではないものの、それを理由にイスラエルに越境攻撃を仕掛けることは控える姿勢を明確にしている。これまでのところ、言葉上の敵対姿勢はともかく、ヒズバッラーの行動もこうしたレバノンとシリアが設定した枠組みの中にある。
問題は、イスラエル軍撤退という事実によって、レバノンに駐留する3万5000のシリア兵にも撤退を求める動きが出始めている点である。キリスト教徒の急進的学生を中心とするこうした動きは、シリアに気兼ねするレバノン政府によってその事実自体が伏せられる傾向にあったものの、アサドの死の直前には次第に公然化の方向をたどっていた。『アン・ナハール』紙の編集者は6月8日、シリア軍のレバノン駐留継続を表明したシャラ・シリア外相の発言をレバノンの世論を理解していないと評した。
(4) その他の問題
アサドの後継者と目されていた長男のバーシルが1994年に交通事故死したとき、バッシャールはロンドンに留学していた。もともとは眼科医で学究的印象の強い彼は、父から思慮深さを受け継いでいるといわれるが、その政治的指導力にはむしろ未知数の部分が多い。
年明け後のインタビューでバッシャールは、自らをグローバリゼーションの世代と述べたものの、同時にまたシリアの伝統的な慎重さを受け継いでいると語っている。個人的には、個々の家庭にコンピュータが存在し、国家経済への規制が解かれ、国民が好きなものを読んだり見たりすることができる状態を希望しているが、一方で安定が重視されるシリアでは、そうした状態を一足飛びに実現することは困難なことを認めている。
こうした発言からしても、仮にバッシャールが権力基盤を比較的短期間に固めることができたとしても、外交や内政、経済政策の面でシリア側から大胆な政策が打ち出される可能性は必ずしも大きくはないかもしれない。 (立花)
2. 各国の反応及び葬儀参列者
(1) 反応
米国
クリントン大統領は、「アサド大統領死去のニュースを聞いて悲しんでいる。大統領のご家族とシリア国民にお悔やみを申し上げたい」「シリアと包括的和平達成の努力を続ける」と表明した。
英国
ブレア首相は、アサド大統領の中東和平プロセスへの貢献を賞賛するとともに、「大統領の死が、最終和平を見いだすための努力の倍増につながることに期待する」と表明した。
フランス
ヴェドリヌ外相は、フランス軍のレバノン派遣問題を協議するために、6月11日のイスラエル訪問を皮切りにレバノン、シリアを訪問予定であったが、これを中止した。
カナダ
カナダのクレティエン首相は、アサド大統領を賞賛するとともに、「近代シリアを建設した指導者」と表明した。
ロシア
ロシア外務省は、アサド大統領の死を悼むとともに、中東和平交渉がとん挫しないことに希望を表した。また、プーチン大統領は、「ロシアの友人であったアサド大統領の死を悼むとともに、その死は早すぎた」と述べた。
イスラエル
バラク首相は、「イスラエル政府は、シリア国民の悲しみを理解する」「次期指導者とともに、中東和平交渉を続ける」と表明した。
レバノン
ホス首相は、アサド大統領の死を「恐ろしい大惨事」とみなし、喪に服す一週間の間、半旗を掲揚するよう命じた。
アラファト議長(パレスチナ自治政府)
3日間の喪に服すと宣した上、アサド大統領の死を悼んだ。
ヨルダン
アブダッラー国王は、アサド大統領の次男バッシャール氏に電話を掛け、「大統領の懸命さ、勇気及び政治家としての経験」を賞賛した。
エジプト
ムバーラク大統領は、アサド大統領の死を悼み、3日間の喪に服すると宣言(6月10日)した。
トルコ
ジェム外相は、「シリア国民の悲しみを共有する。最近、シリアとの関係に向上がみられており、このプロセスは継続するであろう」と表明した。
サウジアラビア
「兄弟シリアの政府と国民の悲しみを共有し、誰が後継者となろうともシリア国民の側に立つ」と言明。
イラン
イラン政府は、アサド大統領の死を弔い、3日間の喪に服すると宣言した。
アラブ首長国連邦
「強力な指導者の死を悼み、その死はアラブ世界にとっての喪失でもある」と表明。また、3日間の喪に服すると宣言。
カタル
「アサド大統領の死を悼む」と表明した。
クウェート
悲しみの中で、アサド大統領の影響力及び困難な(イラク)攻撃の最中にクウェートに差し伸べたアサド大統領とシリア国民の支援を想記した。
オマーン
シリア国民への哀悼の意を表明した。また、3日間の喪に服すると宣言。
バハレーン
シリア国民への哀悼の意を表明した。また、3日間の喪に服すると宣言。
イエメン
シリアの悲しみを共有すると表明した。
(2) 葬儀参列者
シリア政府の発表によると、故アサド大統領の葬儀は、6月13日に首都ダマスカスの北西200キロに存在する故郷Qardahah村で執り行われる予定である。
葬儀に参列予定の世界各国首脳は以下のとおり。
米国:オルブライト国務長官(米国はシリアをテロ支援国家とみていることから、クリントン大統領は参列を見送る意向)
英国:クック外相
フランス:シラク大統領
ロシア:プーチン大統領
レバノン:ラッフード大統領
パレスチナ自治政府:アラファト議長
ヨルダン:アブダッラー国王
エジプト:ムバーラク大統領
サウジアラビア:アブダッラー皇太子
イラン:ハタミ大統領
クウェート:サバーハ首長
イエメン:サーレハ大統領
スダン:バシール大統領
イラク:副大統領の一人が率いる代表団
日本:河野外相
3. 経歴・年譜等
(1) アサド大統領の経歴、関係年譜
氏名:ハーフィズ・アサド (ASSAD、Hafiz, al-)
誕生:1930年10月6日Lattakia州Qardahah (シリア西部海岸地方でフランス統治下のイスラーム教アラウイー派の村)で誕生
学歴:Homs Military Academy (航空科)
略歴並びに年譜:
1940年代初め高校時代にフランスからの独立を目指し政治活動を開始Lattakia州の学生委員会委員に選出され、最初のシリア学生連盟委員長となる。1946年にバアス党に入党
1946年4月17日 シリア独立
1952年 士官学校 (航空科)入学
1955年卒業後、パイロットとなる。その後、ソ連の学校を含め何回もパイロット及び参謀として軍事教育を受け、優秀な成績を残す。
1961年 現場を離れる。
1963年3月8日 無血クーデターに軍事委員会メンバー (5名)の一員として参加し、空軍司令官となる。その後、バアス党の中枢として活動し、バアス党書記長となる。
1966年2月23日 バアス党左派 (アラウィー派とドゥルーズ教徒が支配)による権力獲得クーデターでAmin Hafez将軍を倒し、党内の支配権を把握し、国防相兼空軍司令官に就任
1967年6月 イスラエル、ゴラン高原を占拠
1970年10月15日 無血クーデターで権力を把握し、11月に首相兼国防相に就任
1971年3月12日 大統領に選出される
1971年5月14日 バアス党責任者に就任
1973年10月6日 エジプトとともにイスラエルに侵攻
1976年1月16日 レバノン内戦への干渉を開始 (軍隊派遣)
1980年6月26日 ダマスカスで暗殺未遂 (犯人はイスラーム原理主義者)
1981年12月14日 イスラエル、ゴラン高原を併合
1982年2月2日 Hamaでイスラーム原理主義者を弾圧し、約1万人を殺害
1983年6月 PLOのアラファト議長を追放
1983年11月12日 心臓発作を起こす、弟を含む競争者たちが暗躍
1984年5月28日 弟 (Riffat)を追放
1990年8月2日 イラク軍クウェート侵攻。国連軍に派兵 (29千人)
1991年7月14日 米国が進める中東和平交渉に賛成し、1991年11月のマドリッド会議に出席
1996年3月 中東和平交渉中断
1999年12月 米国で中東和平交渉再開
2000年3月26日 ウィーンでクリントン大統領と面談したが、交渉再開のためのイスラエルとの主張の相違を埋められず
2000年6月10日 死去 (69才)
(2) アサド大統領次男の経歴
氏名:バッシャール・ハーフィズ・アサド (ASSAD, Bashar Hafiz, al-)
誕生:1965年8月に誕生
学歴:フランス系の高校卒業後、ダマスカスの医科大学に入学
シリア並びにイギリスで医学 (眼科)を勉強
陸軍士官学校戦車課程及びパラシュート課程修了
略歴:
1994年アサド大統領の後継者であった長兄 (バーシル)がシリア国内で交通事故で死亡後、イギリスから帰国
1998年7月 陸軍中佐
1999年1月 陸軍大佐
1999年の外遊2月ヨルダン国王とアンマンで会談、7 - 8月サウジ、バハレーン、クウェートを訪問し首脳と面談、10月にオマーンを訪問。11月にフランスでシラク大統領と面談。
アサド大統領死亡時点で政府の公職にはついていなかった。 (シリア・コンピュータ協会会長)
(野草)
4. シリア経済の概要
(1) シリアの経済構造
シリアの98年の一人当たりGDPは1,098ドルで、日本(29,925ドル)のおよそ25分の1の規模となっている。シリア中銀は98年のGDP成長率について7.8%(97年2.5%)と発表し、比較的高成長であった要因を国内消費が好調であったためと説明している。一方で、98年は輸出の約50%を占める原油の価格が低水準で推移しているので、この数字は疑わしいとも見られている。
産業構成
98年のGDP構成は、農業32.3%(95年28.2%)、卸売り・小売業20.1%(同26.0%)、鉱工業16.9%(同13.8%)、運輸・通信12.0%(同11.6%)、政府サービス8.1%(同9.3%)、建設4.2%(同4.3%)、金融4.2%(同4.8%)、その他2.2%(同2.0%)で、各部門間のバランスが比較的良いのが特徴となっている。95年との比較では、鉱工業とともに農業がシェアを伸ばしているのが注目される。農業は麦類・綿花・オリーブが中心で、牧畜も盛んであるが、いずれも近代化は遅れており生産性は高くない。鉱業は同国東部での原油・天然ガス生産が大部分を占めるが、他に小規模ながらリン鉱石も産出されている。工業は、オリーブ油、粗糖、繊維・織物など、国内産一次産品を利用した軽工業が中心となっている。
輸出入構成
シリアの98年の輸出は前年比22.7%減少の31.35億ドルであった。主な輸出品は原油・石油製品(63.5%)、繊維(8.9%)、野菜・果実(6.9%)、綿花(4.3%)、食肉(2.4%)などである(96年)。輸出先は、イタリア(21.7%)、フランス(17.6%)などEU向けだけで55.4%と半分を超すが、トルコ(10.3%)、レバノン(8.6%)といった周辺国も大きな比重を占めている(98年)。
一方、98年の輸入は前年比8.2%減少の33.07億ドルであった。主な輸入品目は機械・機器(21.7%)、鉄・鉄製品(18.0%)、輸送機器(9.8%)、繊維(6.2%)、砂糖(3.0%)、そして、食料品(砂糖、野菜・果実を除く)の割合も8.1%と高い。主な輸入元としては、ドイツ(7.1%)、イタリア(6.5%)、フランス(5.5%)、トルコ(4.8%)など輸出先と同じ国々が並ぶが、輸出先としては上位に登場しないウクライナ(5.8%)、米国(4.7%)、韓国(4.7%*)、日本(4.0%)といった国々も重要な位置を占めている。*韓国のみ97年の数値。
問題点
シリアの国内経済は、上述のように、一つの産業に極端に依存することもなく割合均整のとれたものとなっており、インフレ率も途上国としては低い水準で推移している(95年8.0%、96年8.3%、97年2.3%、98年-1.2%)。また、対外債務はGDPを越えているものの(97年、対GDP比126.4%)、デッド・サービス・レシオはそれほど高くはなく(95年4.7%、96年3.9%、97年9.3%)、外貨資金繰りが極端に苦しい訳ではない。しかし、こうした比較的恵まれたマクロ環境にあるにしては、鉱工業部門の拡大のペースがゆっくりで、産業構造の高度化(近代化)は遅れている。現在のように農業部門が第一の比重を占めているということは、天候によって経済成長が左右されやすいということであり、国土のほとんどが乾燥地域に位置するシリアではその危険性が高い。この不安定要因を縮小するため、鉱工業部門の発達のきっかけを掴むには外部からの資金導入が効果的であるが、そのためには投資環境の整備が課題となってくるだろう。その際は、企業活動に関わる法律整備や規制緩和だけでなく、安全保障上の問題もクリアする必要があり、中東和平の進展の是非が鍵を握ることになると思われる。
シリアでは84年に東部で油田が発見され、89年以降は原油の純輸出国となっており、これまで石油産業は輸出拡大および経済成長にも貢献してきたが、近年、原油産出量は微減傾向にある(95年61万b/d、96年58万b/d、97年57万b/d、98年55万b/d)。この傾向に歯止めをかけるためにも、外部からの資金・技術の導入促進は必要であると思われる。
また、GDPの3割に迫る国防費は経済的に大きな負担であり、3%を越える人口増加率(99年3.3%、推計)は一人当たりGDPの増加を阻むとともに、失業率(実質で20%を超過すると見積もられる)を押し上げている。
(2) 日本とシリアの経済関係
貿易
日本からシリアへの輸出は、96年2.95億ドル(前年比43.2%増)、97年2.14億ドル(-27.5%)、98年1.55億(-27.6%)ドルと推移し、シリアの輸入全体に占める日本の割合は96年4.9%、97年3.9%、98年4.0%となっている。
日本のシリアからの輸入は、、96年0.12億ドル(前年比50.0%増)、97年0.33億ドル(175.0%)、98年0.09億(-72.7%)ドルであり、日本の輸入全体に占めるシリアの割合は1%に満たない。
99年の日本からシリアへの輸出は177.7億円で、前年比44.5%の減少であった。99年の主な輸出品目は、乗用車(輸出全体に占める割合8.8%)、バス・トラック(同14.6%)、ゴムタイヤ及びチューブ(同7.2%)などの輸送用機器とその関連製品、および、原動機(同11.3%)、加熱用又は冷却用機器(同3.8%)、重電機器(同4.2%)などの機械類、そして、鉄鋼(同5.9%)などとなっている。
政府発援助(ODA)
シリアは92年度より無償資金協力の対象国となっている。98年度の無償資金協力は12.54億円(97年24.84億円)で、日本の対中近東無償資金協力に占める割合は4.6%(同10.0%)、同地域の国別順位では5位であった(同5位)。対象となった案件は、食糧増産援助(5.00億円)、ダマスカス市内配水管改修計画(4.36億円)、それにアサド前大統領の名前を冠した図書館の古文書保存機材購入(0.44億円)などである。
技術協力(贈与)について見ると、98年は14.39億円(97年22.09億円)で、中東地域全体に占める割合は11.5%(同16.0%)、同地域の国別順位にして3位(同2位)であった。この枠内において98年は、研修員受け入れ(73人)、専門家派遣(29人)、調査団派遣(131人)、協力隊派遣(13人)などが行われた。
また、有償資金協力については、最近では91年にジャンダール火力発電所建設計画(515.98億円)などに648.68億円、95年にアル・ザラ火力発電所建設計画に461.99億円の供与が行われた。
98年のシリアへのODAドナーの中で、日本は71.3%(97年49.7%)と圧倒的な割合を占め、第1位(同1位)となっている。2位はドイツで12.9%(97年も2位、27.1%)、3位はフランスで11.9%(97年も3位、15.8%)であった。(大月)